最近、島唄(沖縄民謡)を聞いたり、エイサーを見たりする機会が増えましたね。
沖縄出身者だけでなく、生っ粋のヤマトンチュー(本土出身者)も島唄やエイサーを習ったり。
日本の民俗芸能で、ご当地以外でここまで盛んなものは、実に珍しい。
例えば、津軽じょんがら節や、富山・八尾の風の盆の踊りや、
最近注目されているよさこいソーランなどでも、ここまでのひろがりはないのです。
確かに、喜納昌吉の「花」やThe BOOMの「島唄」は、
今日の島唄ブームの大きなきっかけだったと思います。
しかし、そのきっかけが大きなブームに発展したのは、
やはり島唄の底力があってこそだと、私は思うのです。
・・・・・・ふと閃きました。
「日本の中の島唄は、
アメリカの中のジャズやゴスペルサウンドと
同じ歴史をたどってるのかも」と。
アメリカの黒人は、聖書の教えと音楽だけを頼りに
貧困と差別の中であえいできた長い歴史を持っています。
その中から生まれてきたジャズが、
黒人以外のアメリカ人の音楽シーンに影響を与え、
やがて世界の音楽になっていった......
今でもジャズの大御所に黒人が多いのは事実だけれど、
ジャズが黒人だけの音楽だなんて思ってるアメリカ人は滅多にいなくなっている......
沖縄は、元を正せば独立国・琉球王国。
島津藩に侵略されてからの沖縄は、
ヤマト(この場合は島津藩)からの年貢の取り立てと、
琉球王朝を存続させるための税金の取り立ての
二重の苦しみを課せられました。
ある大臣は、
「琉球(沖縄)の政治は、腐った手綱で馬を走らせるようなもの」
と嘆いたといいます。
琉球王朝の支配から切り離され、島津藩の直轄地となった奄美諸島は、
もっと悲惨だったと言われています。
琉球王朝の支配の時代は「那覇世(なはんゆ)」と呼ばれ、
直後の「大和世(やまとゆ)」と対比して、まるで楽園のように語り継がれています。
幾つかの民謡で、
「美しい娘は島のためにならない。どうせ薩摩から来た島役人のものになるんだから」
という意味の、胸がえぐられるような内容の歌詞が、今でも残っています。
明治維新から間もなく、
中国との関係上形だけ残されていた琉球王朝は、力ずくで取り潰されます。
最後の王が東京に連行される間際に詠んだ歌、とくに最後の一節、
「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝、一番尊いもの)」
という言葉は、沖縄の人々の間で広く深く語り継がれています。
そして、猛毒のソテツを毒抜きして食べるしかなかったほどの飢饉「蘇鉄世(すてぃちーゆ)」と
離島苦「島痛び(しまちゃび)」に苦しめられ、
出稼ぎに行った先でも差別され、格差が縮まらないまま、
太平洋戦争では悲惨な戦場となり、その後30年近くもアメリカの軍事支配を受け......
今でこそ、沖縄は形式上は日本の領土です。
しかし、米軍基地や演習地はまだまだ広大な面積に及び、
演習中の事故、米軍兵士の暴行事件は後を絶ちません。
それに対して地元の立場から異を唱えた知事を、
事もあろうに日本の総理大臣が裁判でうったえるとは!......
美しい自然や南国らしい大らかな人情とは裏腹に、沖縄の歴史は常に残酷でした。
そんな中での島唄は、沖縄の人々にとっては慰めであり、
ウチナンチューとしての誇りを持ち続ける手段であり、
楽しみであったことでしょう。
沖縄の民謡は、日本の民謡の中で、いや日本の音楽の中で、
いちばん歌い手や聞き手の喜怒哀楽に寄り添ってきた歌なのではないでしょうか。
今日、地元で日々新曲が生み出されている民謡は、沖縄・奄美以外にはないのです。
だからこそ、島唄には独自の底力があり、
ウチナンチュー・ヤマトンチューのへだてなく人々をひきつけ、
いずれはジャズやロックのように、誰が歌っても違和感無く受け入れられる
音楽の一ジャンルになるかも知れない------そう考えつつ、
「北海道出身のくせに何で沖縄に詳しいんや」てな横槍を尻目に、
私は一向に上達しない三線をかき鳴らしているのです、はい。
島唄関係のリンク
リトル沖縄・民謡酒場ルポ
島唄の楽しみ方の一例を、こちらで案内しています。